サッカーおやじの妊活&子育て奮闘記

男が家族のためにできること

母の記憶①

2泊3日と短い期間ではありましたが、祖母の家で改めて家族の絆を感じることができました。

 

そもそも、私は幸せな家庭に強い憧れを持っています。

 

だから、仕事より家族が大事だと明確に言えるし、テセウスの船で竹内涼真が「幸せな家庭は当たり前じゃない」と言っていても、「そりゃそうだろ」と思えます。

 

その根本にあるのはやはり母との思い出です。

 

普段、あまり人に話すようなことではないでしょうが、そういうことも綴れるのがブログの良さです。

 

ということで書いてみます。

 

あらすじ

 

もともと私の家庭は父、母、私、弟、そして父方の祖父母の6人暮らしでした。

 

共働きでちょっと寂しい思いはしてましたし、弟は幼稚園の頃からずっと登校(登園)拒否ぎみでしたが、まあごく一般的な家庭だったと言えると思います。

 

父は病院関係の仕事、母は看護婦でした。

私は、小学2年生、ちょうど日本でJリーグが始まった年にサッカーを始め、サッカーを通じてたくさんの仲間に出会い、様々な経験をしました。

すぐにサッカーが好きになり、休み時間も放課後もサッカー、授業中もずっと自分なりのJリーグのベストメンバーや世界選抜メンバーを考えていました。

 

ある日のこと

 

私が小学4年生の頃からだったと思います。

母が病気で入院することになりました。

私はびっくりしましたが、父からは、

 

「大したことない。すぐ退院する。」

 

と聞いていました。

自分の不安もありましたが、小学校に入学したばかりの弟のことのほうが心配でした。

ただでさえ、なかなか学校に行けない子だったので、自分が何とかしなきゃと思っていました。

 

弟は、

 

「兄ちゃんと一緒なら学校に行く」

 

と言い、実際に4年生の私の教室の一番前の席で授業を受けたこともありました。

となりのトトロのメイちゃんみたいな感じです。

 

そんなことも、母が退院すればすべて解決することだと思っていました。

 

 

手術

 

しかし、父の言葉とは裏腹に、母はなかなか退院しません。

 

それどころか、手術するみたいなことになっていて、遠方から祖母が来たりと、だんだん大ごとになってきました。

 

私は、早く帰ってきてほしいなあと思っていました。

 

父は、私に隠せないと思ったのか、

 

「ママは癌っていう病気なんだ。

でも、手術すれば治るから心配するな。」

 

と言いました。

 

当時の私にはよくわからないし、病院で働いている両親がそういうなら大丈夫なんだろうと思っていました。

 

手術が終わり、母は無事に退院しました。

 

私は、甘えん坊だったので、まだ母と一緒にお風呂に入っていました。

 

しかし、父からは、

 

「ママとはもう一緒にお風呂に入れない」

 

と言われました。

 

私は、

 

「やっと帰ってきたのに、いやだ!」

 

とダダをこねました。

 

結局、母が、

 

「大丈夫よ」

 

と言って、一緒に入ってくれることになりましたが、母の身体を見ると、乳房が1つしかありませんでした。

 

片方は痛々しい傷痕があるのみでした。

 

乳癌の全摘出手術だったのです。

 

父は、母の見せたくない気持ちと、私がショックを受けることの両方に配慮しようとしたんだと思います。

 

父にも母にも、申し訳ない気持ちでした。

 

でも、

 

「これで元気になったんだ」

 

と思うと嬉しいし、複雑な気持ちでした。

 

当時の母のことを思うと、心が痛みます。

 

女性として、乳房を丸ごと取られることはどんなに悲しいことでしょう。

そのとき、まだ34歳だったと思います。

 

それでも、家族のために、生きることを選択したんだと思います。

 

とても1日で書ききれないので、明日に続きます。

何回になるかわかりませんが、ぜひ、全部読んでくださいね。