母の記憶②
昨日から、私の少年時代の母との思い出を書いています。
www.gucciia.me 乳癌の全摘出手術により、片方の乳房を失った母。 それは、今考えると、家族のために生きることを選択した証でした。 子どもには見せたくなかったでしょうが、これまでのように一緒にお風呂にも入ってくれてたくさん甘えさせてくれました。 女性として大切な身体の一部を失いましたが、それと引き換えに平穏な家族の幸せを取り戻しました。 …しかし、それも長くは続きませんでした。 母は再び入院することになりました。 私は小学5年生になっていたと思います。 また、父と兄弟での3人の生活が始まりました。 なぜまた入院することになったのかは、私にはよくわかりませんでした。 ただ、とにかく弟のことが気がかりなのと、また早く帰ってきてほしいと願うばかりでした。 のちに知ったことではありますが、母の癌は摘出する前に実は肺に転移していて、それが手術の後に発見され、再び癌の治療をすることになったのでした。 母の病院へのお見舞いには、よく父が連れて行ってくれていました。 今考えると、ひとりで仕事をしながら小学生の子ども2人を育てながら、妻の看病をする… 壮絶な毎日だったと思います。 隣県への車通勤だったこともありますが、私の記憶では、父は酔っぱらって帰ってきたり、夜遅くに帰ってきたりしたことは一度もありません。 毎日、仕事が終わるとまっすぐ帰ってきてくれていましたし、私や弟が日中寂しくて会社に電話しても必ず電話に出て話してくれました。 特にこの時期には、仕事の帰りに毎日スーパーに向かい、安くなったお惣菜を買って家に帰ってきてくれていました。 週末には得意と豪語するカレーをよく作ってくれました。 そんな父に、 「このお惣菜もう飽きた!」 「またカレー?」 などと言っていたことが今となっては本当に申し訳ないです。 そんな優しい父と一緒に家族3人で行く母のお見舞いは、小学生の私たち兄弟にとっては楽しみなことでした。 母に会えて、元気なときには一緒に売店に行ったり散歩をしたり… そんなことに幸せを感じていました。 病状の良くならない母ですが、おそらく病院に無理を言って、一時的に退院してくれたことがあります。 私の運動会があったからです。 サッカーの試合は両親ともほどんど見に来れなかったので、運動会ぐらいはなんとかと思って無理をしてくれたんだと思います。 特に私は毎年リレーの選手になって、母にかっこいいところを見せるのが嬉しかったので、母も私が走る姿を見に来てくれたんだと思います。 一緒にお弁当を食べた昼休みの母の笑顔は、今でも忘れられません。 一緒に参加できる最後の運動会になると覚悟していたのでしょう。 祖母がよく話してくれます。 「あの頃は、あまり病状が良くなかったのに、あの運動会のときのあの子はすごく元気だったのよ。 ほんとに楽しそうにいっぱい笑ってた。」 束の間の夢のような時間はあっという間に過ぎ去り、母はまた病院に戻りました。
自分の女性としての身体よりも家族を優先してくれた母
再び
偉大な父
一時退院