サッカーおやじの妊活&子育て奮闘記

男が家族のためにできること

母の記憶~その後③

母の最期の日までの記憶をたどってきました。

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そして、母が亡くなったその日からのことを綴っています。

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中学校入学

 

さて、母がいなくなって1年半が経ち、私は小学校を卒業しました。

 

中学校は小学校よりも家から近く、同じ小学校の子たちはみんな同じ中学校に行くので、そんなに大きな変化はなかったです。

 

ただ、変わるのは、私服から制服になること、そして、給食が無くなることでした。

 

当たり前のことかもしれませんが、父子家庭の我が家にとっては制服にお金が掛かり、給食も無くなるということは一大事でした。

 

私はお金の詳しいことはわかりませんでしたが、父が何とかしてくれていたんだと思います。

 

ただ、昼ごはんはどうにもなりません。

 

私が通う予定の中学校では、弁当を持ってくるか、購買部にパンを買いに行くかどちらかでした。

 

中学校初日

 

入学式の次の日だったと思います。

その日から昼食が必要でした。

 

「昼めしはパン買えば大丈夫やな。」

 

父にそう言われ、私自身も、他にもいるだろうし行けばなんとかなると思っていました。

 

新しい制服、新しい教室、新しい先生、新しい仲間もいます。

 

ホームルームで先生が言いました。

 

「今日、お弁当を持ってきていない人はいるかな?」

 

なんと、手を挙げたのは私ひとりでした。

 

 

えっ…

 

私も驚きましたし、クラスメイトも先生も、一斉にこちらを見ました。

 

「初日は弁当持ってくるでしょ。」

「なんで持ってきてないの?」

 

みんなからそう言われているような気分でした。

 

先生が慌てて、

 

「あっ、じゃあ昼休みになったら先生と一緒に行こう。教えてあげるから。」

 

昼休みになると、先生が購買部に連れて行ってくれましたが、とても淋しかったです。

 

私と先生が教室に帰ってくると、みんなが弁当を広げて待っていました。

 

「みんなお母さんに作ってもらったんだろうな。」

 

そんなことを思いながらも席に着き、ひとり、購買部で買った冷たいパンを食べました。

 

慣れてくればパンの子も増えてきましたが、さすがにどの家庭も初日はしっかり弁当を作るのが普通らしいです(笑)

 

幼なじみの家族

 

同じクラスには、幼稚園の頃からの幼なじみがいました。

 

彼は、家も徒歩2分ぐらいのご近所さんでよくお互いの家にも遊びに行っていました。

 

彼の家には、お姉さんが2人いて、特に下のお姉ちゃんが私たちのことも可愛がってくれていました。

 

彼の家は4人家族です。

 

お父さんが仕事で稼いできて、家のことは2人のお姉ちゃんたちがやっていました。

 

お母さんはというと、お姉ちゃんたちが小学6年生と2年生で私の幼なじみが3歳のときに病気で亡くなっていました。

 

そして、私の母が亡くなったとき、下のお姉ちゃんが私に手紙をくれて励ましてくれたことも覚えています。

 

自分と同じような境遇になった、弟の幼なじみの私のことを一番理解してくれていたと思います。

 

その家族のおかげで、私は辛いことも乗り越えてこれたと思います。

 

 

今回もそうです。

 

彼は、家で私だけが弁当じゃなかったことを話してくれたんでしょう。

 

下のお姉ちゃんと2人で、夜遅くうちに訪ねてきました。

 

「これ、明日のお弁当。持っていって。」

 

「えっ、いいの?」

 

「あんただけパンやったんやろ?

これから私が作るよ。

どうせ毎朝作るのに、3人分も4人分も変わらんよ。

でも私も休みたいから週3ね。」

 

お姉ちゃんは当時、高2だったと思います。

上のお姉ちゃんはもう家を出ていたので、お父さんと弟と自分の分を毎朝のように作ってから高校に通っていました。

 

私は父に話し、父からもお礼を言ってお願いすることになりました。

 

弁当のある生活

 

流れはこうです。

 

まず、次の週末に父と弁当箱を買いに行きました。

 

その弁当箱を持って週3回、お弁当を作ってもらう前の日の夜に、歩いて私がその子の家まで弁当箱を持って行きます。

 

私「お願いします。」

 

お姉ちゃん「おっけー👌」

 

そして、翌日、学校で弟からお弁当を受け取る。

 

食べた弁当箱は、一旦私が家に持って帰り、自分で洗って、また夜に歩いて持って行く。

 

「お願いします。」

 

「おっけー👌」

 

月に1回は、お弁当箱と一緒に、父から授けられた重たいお米を米俵のように担いで(笑)

 

毎日、朝も夜もお総菜か冷凍食品だった私にとって、昼も毎日パンなのと、お弁当の日があるのとでは天と地の差です。

 

そのことを考えれば、自分で弁当箱を洗うことも、頭を下げることも、米を担ぐことも、まったく苦ではなく、むしろそのルーティンに幸せを感じていました。

 

お弁当を食べられることに幸せを感じられるのは、自分の境遇だからこそです。

 

その頃から、自分だけが不幸だとか、運が悪いとか、そういうことを思わなくなりました。

 

結局、お姉ちゃんは3年間、お弁当を作り続けてくれました。

 

ちょっとやんちゃなお姉ちゃんで、そのあとすぐに結婚して、その後のことは知りませんが、大人になった今、改めてお礼を言いに行きたいとこれを書きながら思っています。

 

あなたのおかげでぼくは自分の境遇を不幸だと思わなくなりました。

 

お姉ちゃん、本当にありがとう。