サッカーおやじの妊活&子育て奮闘記

男が家族のためにできること

母の記憶~その後②

母の最期の日までの記憶をたどってきました。

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そして昨日から、母が亡くなったその日からのことを綴っています。

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日常の生活へ

 

 

 

通夜・葬式を終えると、夏休みも終わり、2学期が始まります。

まだ、忌引き期間ではありましたが、父は、私が家にいるよりも学校に行っていつもどおり生活した方が気持ちも紛れると思ったのでしょう。

 

「始業式から普通に学校行きなさい」

 

と言ってくれました。

私も別に休んでいても悲しみが収まるわけでもないので友達に会って普通に過ごす方がいいと思いました。

 

まあ、今思えば、いろいろと役所や会社に連絡したり大変だったでしょうし、弟が一番心配だっただろうから、私が学校に行ってくれていたほうがいろいろ動きやすかったのもあったかもしれません。

 

そして、私にとっても私たち家族にとっても、これからが本当の地獄の始まりでした。

 

2学期の初日

 

始業式から登校した私でしたが、周りの友達は思ったより普通でした。

 

今思えば、どう接していいか、なんと声をかけていいかわからなかったのでしょう。

小学生ですからね。

 

しかし、小学生の私にとっては、少し淋しい気持ちでした。

 

「大丈夫?」

「大変だったね。」

 

何でもいいので、声をかけてほしかったというのが本音です。

 

 

しかし、一番悲しかったのは、そのことではありません。

 

教室に全員が揃って着席しました。

クラスには、その日から学校に来た転校生がいました。

先生が教室に入ってきました。

母より少し年上くらいの女性の先生です。

朝礼が始まり、先生が言いました。

 

「今日から○○さんが転校してきました。」

 

先生は続けて私のことにも触れました。

 

「お母さんが病気で亡くなったそうです。」

 

さらに続けて、

 

「みんなで2人に拍手をしましょう。」

 

 

私は深く傷つきました。

 

おそらく、先生にとっては、「よく来てくれたね」「がんばってね」という意味だったんだと思います。

 

もしかしたら、私が忘れているだけで、「悲しいでしょうが今日から学校に来てくれました」的なことも言っていたのかもしれません。

 

しかし、私にとっては、

 

「転校生が来たこととぼくのママが死んだことは同じことなの?」

 

と感じ、なんで拍手されないといけないのか理解できずに先生のことを嫌いになりました。

 

そして、

 

「友達も先生もみんなぼくの気持ちなんかわからない。」

 

というひねくれた考えを持つようになっていきました。

 

 

今思えば、先生もどうしていいかわからなかったのかもしれません。

 

しかし、その先生にも当時の私と同じぐらいの子どもがいたはずです。

もう少し配慮があると嬉しかったと今でも思います。

 

家では

 

弟はもともと不登校気味でしたが、このとき以来さらに学校に行かなくなりました。

 

そして、家ではひとりで隠れてタバコを吸ったり、お酒を飲んだりするようになりました。

 

学校に行けば先生に悪態をつき、勝手に家に帰ったり、家でも壁や扉を蹴って穴を開けたりして、ふさぎ込むようになりました。

 

1年生の頃はよく友達が家に遊びに来ていましたが、心配して来てくれる友達のことも追い払うようになり、3年生のなるころにはだれも遊びに来なくなりました。

 

 

そして家族の夕食は、私が大学進学で家を出るまでの8年半、毎日毎日毎日毎日スーパーのお惣菜か冷凍食品でした。

 

当時、同居していた父方の祖父母もちょうど体調を崩しがちだったこともあり、父には余裕がなかったんだと思います。

 

 

それからしばらくして、祖母は老人ホームに入り、祖父も衰弱していきました。

 

翌年、祖父が亡くなり、その2年後には祖母も亡くなりました。

 

6人家族だった私たちは、3年間で3人家族になりました。

 

父は、わずかな間に妻と父と母を失いました。

 

そして3回すべての葬儀で喪主を務めました。

 

祖母の通夜の前に父が言っていた言葉が忘れられません。

 

「喪主はもう慣れたよ」

 

 

ちょっと悲しい話になりすぎてすみません(+_+)

 

明日はもう少しだけ明るい話になると思います。